eこの思いを明日へ

  • 2016.03.11
  • 情勢/社会
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公明新聞:2016年3月11日(金)付



「若き命」たち あの日からの歩み



きょう東日本大震災から5年。大切な人を、大好きな街を、当たり前の日常を、突如として奪った3.11。「若き命」たちは、あの日とどう向き合い、歩んできたのだろう。住民の1割超が犠牲になった宮城県東松島市野蒜地区での被災体験を語り継ぐ志野さやかさん(21)、ほのかさん(17)姉妹と、関西の地から被災地へ何度も通い、交流活動を続ける久保力也君(21)。3人の成長の軌跡を追った。


姉妹で体験伝える活動


亡き祖父を胸に、生きる


宮城で被災 志野さやかさん、ほのかさん


色とりどりの風船が空高く舞い上がっていく。学びやに別れを告げる人たちの笑顔が幾重にも広がっていく―。142年続いた野蒜小学校の閉校式。そこには、卒業生のさやかさん、ほのかさんが無邪気にじゃれ合う光景もあった。姉妹で支え合いながら、あれからの日々を乗り越えてきた喜びを物語るように。

震災当時、小学6年だったほのかさんは、避難した体育館で津波に襲われた。「すいません」と言って重なり合う遺体をまたいで歩き、教室で友達と体を温め合って一夜を明かした。

石巻西高校の1年だったさやかさんは、父親の実家で眠れぬ夜を過ごした。連絡がとれない妹。もしかしたらダメかも。考えたくもない思いが浮かんでくる。だから翌日、妹と再会できた時には、涙が止まらなかった。2人はその日、ぴたりと体を寄せ合い眠った。

自宅が津波で壊されたのは我慢できた。だが、大好きだった祖父・五男さんの死は受け入れられなかった。亡骸と対面したとき、姉は「おじいさんじゃない」と泣き崩れ、妹は「ごめんね。私が帰っていたら助かったのに」と語り掛けた。

さやかさんが被災体験を語り始めたのは、その年の11月。早稲田大学の大学祭で原稿を読み上げると、「聞いてくれていた人は、みんな泣いていた」。悲しくとも、つらくとも語り継いでいこう。そんな使命を知った原点の日となった。

姉の後を継ぐように、同じ石巻西高に進学したほのかさんも、体験を伝えるように。昨年5月からは、語り部として自宅跡に立つ。「ここは、おじいさんが私の帰りを待ってくれていた場所」。涙を流しながら、いつもこう続ける。「大切な人に会えるのは当たり前じゃない」「生きられるきょうを全力で生きて」

さやかさんも妹と同じ思いだ。「ありふれた日常を大切にしてほしい」

大空に吸い込まれ、風船は米粒ほどの大きさに。いつまでも眺めている姉妹はきっと、こんなことを思っていたに違いない。「おじいさん、私たち頑張るね」


1.17と3.11つなぐ交流会


次の世代に後悔させない


関西から東北に通い続ける 久保力也君


赤茶けた鉄骨がむき出しになり、津波のすさまじさを無言で語る宮城県南三陸町の防災対策庁舎。今月7日、大学の友人に被災地を案内した久保君(3年)は「ここは、避難を呼び掛け続けながら亡くなった人がいた場所」と切なそうな表情を浮かべた。

石巻市の大川小学校では、児童・教職員84人が亡くなった悲劇を伝え、「なぜ避難できなかったのか」とあふれる涙で目を真っ赤に腫らした。その真っすぐな瞳には、5年前から決して変わらない決意がにじむ。「次の世代に同じ思いをさせたくない」と。

3.11のとき、防災を専門に学ぶ兵庫県立舞子高校環境防災科の1年だった久保君。何度か被災地に通ったが、「全く変わらぬ景色に自分の無力さを痛感」。継続の必要性を感じ、東北に通い続ける心を固めた。

大学進学後、阪神・淡路大震災の1.17と3.11をつなぐ学生団体「with(ウィズ)」を設立。2013年夏には、大型バスをチャーターし、「阪神」を経験した関西の学生らでボランティアに汗を流した。

大きな転機が1年後に訪れる。「被災体験を語りたくても、語る場がない」。舞子高校時代から交流のあったさやかさんから被災地の実情を聞いたのだ。ならばと、アルバイトでためたお金で、毎月のように東北へと足を運んで友人たちの意見を聞き回り、関西と東北の学生たちによる交流会を企画。同世代の若者同士で3.11を語り合った。

交流会はこれまで、3度にわたり開催。さやかさん、ほのかさんをはじめ、たくさんの"語り部"たちも参加している。共鳴し合う若き命から迸る"叫び"ほど強く、すがすがしく、真っすぐなものはない。

久保君が、さやかさんが、ほのかさんがしぼり出した言葉は、多くの参加者の胸を打ち、草の根の協働の輪を大きく広げている。

今、震災から5年。次の5年に向けての目標を尋ねると、若き学徒はただ一言。「次の災害に備え、防災意識を根付かせる!」

(文=渡邉勝利、写真=江田聖弘)

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