e阪神・淡路大震災 20年

  • 2015.01.19
  • 情勢/社会


公明新聞:2015年1月17日(土)付




立ち止まらず前へ 若者と、家族を追う



愛しい家族や友人の命を奪い、都市を壊滅させた「阪神・淡路大震災」から、きょうで20年―。残された被災者は、悲しみを乗り越えて前を向き、暮らしと地域の再建に挑んできた。その軌跡を、若者らの姿を通し追った。=関西支局特別取材班



家屋倒壊し、両親と兄失う



「今度は僕が"守る側"に」



神戸市灘区


身を切るような寒風の中、神戸市中央区の建設現場に、一人の青年のはつらつとした声が響いた。声の主は湯口礼さん(22)=同市灘区在住=だ。礼さんは阪神・淡路大震災で両親と兄の家族3人を亡くし、自分一人助かった。祖父母に引き取られ、親戚、友人など多くの人にも支えられ生きてきた。「今度は自分が支える側に」。礼さんは縁した人への恩返しを心に誓っている。


震災発生時、家族4人で暮らしていた自宅(兵庫県芦屋市)が全壊。家屋が倒壊する直前、礼さんは父・節夫さん(当時26歳)の腕の中に抱かれ、がれきの中から奇跡的に救出された。


礼さんには震災当時の記憶が全くない。残されたホームビデオを見て、ささやかだが、温かい家庭で育てられたことが分かったという。中学卒業後、高校へ進学したが、中退。「周囲に迷惑ばかりかけたが、前向きに過ごせてこれた。祖父母が愛情を注ぎ育ててくれたおかげ」と振り返る。その後、友達の家族の紹介で現在の建設会社で働く傍ら、通信制の高校で学ぶ日々だ。


毎年1月17日、礼さんは地元の追悼式に足を運ぶ。「いつも両親が遠くから見守ってくれている気がするんです。父のように大切な人を守れる人間になりたい」。礼さんはそう言って、はにかんだ。



父母の姿追いかけて



「人に尽くす人生」誓い歩む



兵庫・芦屋市


「被災しながら人のために尽くす両親の姿を見て、その心が社会人になり理解できるようになった」。改修された芦屋市のマンションに父母と同居し、介護施設で働く大石晃さん(27)はこう語った。


死者444人、全半壊の建物が8784棟に及んだ芦屋市。20年前の1月17日、現在のマンションで大石さん一家が寝ていた時、激震が襲った。父・晴一さん(63)が体を起こせた時には、母・香代子さん(57)と晃さんが箪笥の下敷きに。晴一さんが力ずくで箪笥を持ち上げ救出、ドアの隙間に肩を入れてこじ開け外に脱出できた。しかし、大石さん一家が住むマンションは、鉄骨や内壁にひびが入るなど甚大な被害を受け、全壊の判定を受けた。



「大規模改修か、建て替えか」―。マンションの再建へ、住民の意見が真っ二つに割れ、人間関係も悪化していった。


「自分に何かできることはないのか」。晴一さんは仕事から帰宅すると、理事として意見集約に奔走。香代子さんと共に住民のコミュニティーの再建にも力を注いだ。議論が沸騰した際には、公明党の故・冬柴鉄三衆院議員にも相談。冬柴氏や公明市議の助言も受け、マンションを改修することで住民が合意。加えて、震災を教訓に自主防災組織も設立できた。晴一さんは「マンションの"復興"を通じ住民同士の絆も強くなった」と語る。


当時、小学生だった晃さんは震災の記憶がおぼろげだ。しかし、父母の苦労した姿だけは、今でも鮮明に覚えている。


晃さんが勤める介護施設には、震災を経験した高齢者も入所している。1・17が近づくと多くなる、震災を嘆く言葉。「同じ被災者の一人として高齢者に寄り添い、尽くせるようになりたい」と言う晃さん。自身、自主防災組織の一員として、地元で高齢者への介助の仕方などを助言している。


「今の仕事にやりがいを感じるのは、苦労を重ねた両親がいたから」。そう語る晃さんを見守る父母の目は、うれしさで輝いていた。

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