e寂しくとも前へ

  • 2017.03.13
  • 情勢/社会
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公明新聞:2017年3月11日(土)付



仮設暮らしの今を追って
東日本大震災6年
「出たい、でも出られない」
しのび寄る孤立化の影
宮城・石巻市



きょう東日本大震災から6年。津波被災地では、かさ上げ工事や復興住宅への転居が進み、福島でもこの春、東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示区域の解除が4町村で予定されている。ただ、プレハブ仮設住宅での暮らしを余儀なくされている人は、いまだ約3万4000人―。長引く仮の住まいでの生活に入居者は何を思い、願っているのだろうか。宮城県石巻市で"仮設の今"を追った。(東日本大震災取材班 渡邉勝利 写真=江越雄一)

春めいた陽気に誘われたように、なじみの顔が仮設住宅のベンチで団らんの花を咲かせている。

「昔は、にぎやかだったのになぁ」「さみしいねー」

ここは、被災地最大の1142戸が軒を並べる開成仮設団地。この数カ月で復興住宅への移転や自宅再建が一段と進み、洗濯物も所々でしか揺れていない。今は、ピーク時の3分の1を下回る300世帯ばかりが生活している。


不条理な仕打ち

「 未定」。住人の斉藤明美さん(50)は、今後の住まいについて力なくこう話す。家賃負担も考慮して、復興住宅に申し込んだが、「入居資格がない」と市職員から告げられた。

震災当時に住んでいた一軒家は、1階の天井まで津波が襲い、全壊判定。だが、解体はせず、親族の一人が修繕して暮らしている。このため、住める自宅があるのに戻らないのは「自己都合」と判断された。

予期もしなかった"不条理な仕打ち"―。「あの日、私は逃げ遅れて、2階で助かった。近所には亡くなった人もいる。ここから早く出たいけど、あの家に住むのは怖い」と複雑な胸の内を明かす斉藤さん。2人の娘は、この春から専門学校と高校にそれぞれ進学するが、「狭い仮設では勉強もままならない。娘たちには申し訳ない」。苦悩する母はこう言って、また深く肩を落とした。


仮設から仮設へ

石巻市内にできた134の仮設団地は今後、規模の大きな24団地に集約、残りは撤去される。学校用地や民有地を早期に返還するためだ。ただ、復興事業が長期化し、"仮設から仮設へ"と引っ越しを余儀なくされる人も少なくない。

雄勝地区で被災した千葉ちえ子さん(73)もそんな一人だ。雄勝の住民向けに建設が進む復興住宅は、造成に手間取り、入居が見込まれるのは来年12月。移転先を含め、プレハブの建物から解放されるまでには、まだ2年近くの歳月がかかりそうだ。「少しぐらい遅くても、また雄勝のみんなに会えるから」。千葉さんは気丈に笑ってみせる。


太陽のような人

これまで住人の世話役として、汗を流してきた千葉さん。体操で、お茶会で、おしゃべりでと、いつも周囲に笑顔を広げてきた。新居に移った仲間も久々に集まって、催しが開かれたこの日もそうだった。「仲良くなるまでには、時間がかかったけどね。みんなは私の宝」。

隣でほほ笑む伊藤律子さん(71)も雄勝の出身で、仮設に暮らす。「いつもみんなを楽しませて、ほっとさせる太陽のような人」。姉のように慕う千葉さんをこう評した後、伏し目がちに言葉を続けた。「本当は悲しいはずなのに」と。

あの日、真っ黒な津波は、千葉さんの最愛の息子の命を奪い去った。千葉さん自身も波にさらわれ、泥水を飲みながら、どんどん流された。「もうダメ」。死を覚悟した瞬間、目の前に見つけた木にしがみつき、九死に一生を得た。

亡き息子の一家が落ち着きを取り戻し、迎えた昨年のお盆のこと。「千葉家にお嫁さんに来なければよかったのに。ごめんね......」と伝えると、「お義母さん、大丈夫だよ。私、よかったと思ってるよ」との言葉が返ってきた。涙がどっとあふれた。

震災の年の6月から始まった、余りにも長い仮設での日々。「困っている人を助けよう」と努めて明るく振る舞ってきたのも、そんなけなげな嫁と、お父さんっ子だった2人の孫を守りたいとの思いからだったに違いない。

それでも、3月11日が近づいてくると嫌でも思い出す。津波の記憶を、愛息と共にあった41年を。そして思う。「親孝行のいい息子だったな。お母さんも、強い気持ちで生きないと」。狭い仮設の中で、頬を伝わる涙をそっとぬぐった。

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