e「人間の復興」へ走り続けた3年9カ月

  • 2014.12.08
  • 情勢/社会
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公明新聞:2014年12月8日(月)付



検証 東日本大震災と公明党



東日本大震災からまもなく3年9カ月。4度目の冬を迎えた東北の被災地では今も、復興に向けて懸命の努力が続く。折しも列島は衆院選の只中。復興加速をどの党に託すか。被災者の関心は高い。震災発生いらい、「人間の復興」の旗を高く掲げ、被災地と被災者に寄り添い続けてきた公明党の日々を振り返る。=東日本大震災取材班


あの日 1分、1秒を惜しんで


「1000年に1度」の大震災に、公明党の対応は素早かった。

2011年3月11日、発災から1時間も経たない午後3時20分には、山口那津男代表を総合本部長、井上義久幹事長(衆院選候補=比例東北ブロック)を本部長とする対策本部を設置。夕刻には山口代表が与野党党首会談に臨み、菅首相(当時)に「野党として協力すべきは全力で協力する」旨を約束、併せて緊急の補正予算を急ぎ組むよう要請した。

その後も山口代表ら党幹部は夜遅くまで、党本部で被害状況の掌握など震災対応に全力で当たった。「災害対応の肝は、一にスピード、二にスピード、三にスピード。1分、1秒を惜しんだ」。自身と党の"あの日"を、井上幹事長はこう振り返っている。

被災地の公明党地方議員も、住民の安否確認へ、被災者救援へと果敢に動いた。

自宅を津波で流された岩手県釜石市の山崎長栄議員は、「自分のことは後回しでいい」と、高台に避難した人々のために食料や水の確保へと走った。津波で父親を亡くした宮城県気仙沼市の村上進議員は、「孤立して動けない」との1通のメールを受け、衣類や食料を車に詰め込んで"孤立者"のもとへと向かった。

東京電力福島第1原発周辺の福島県大熊、富岡、浪江各町や南相馬市の公明議員らも、自らが避難を余儀なくされる中、恐怖と不安に怯える住民を励まし続けた。

《証言》村田次男・宮城県気仙沼漁協専務「公明党のスピード感には驚いたよ。何より俺たちの苦労をわが苦労として感じ取ってくれたことが最高にうれしかった」


震災半年での公明党の主な実績


○政府会見に「手話通訳」導入
○原発冷却作業への生コン圧送機「キリン」投入
○甲状腺治療薬の供給確保
○「福島原子力被災者・子ども健康基金」の創設
○福島の子ども・妊婦へのガラスバッジ(携帯型線量計)貸与と校庭の表土除去
○福島全県民を対象とした放射線量調査
○罹災証明書の発給
○東北方面高速道路の一時無料化
○原子力損傷賠償の体制づくり
○生活再建支援金の支給
○仮設住宅などへの生活家電6点セット提供
○被災中小企業の資金繰り支援
○被災農家への「つなぎ資金」制度実現
○支援金・義援金の早期配分
○復興基本法の制定
○がれき広域処理と国主導の汚染がれき処理、除染
○事業者向け二重ローンの救済


「政権復帰」以前 現場へ、また現場へ


被災者目線で復旧推進

「現場第一主義」―。公明党にとって震災発生からの3年9カ月は、結党以来のこの旗印を掲げて被災地を疾駆し続ける日々だった。

震災翌日、井上幹事長は交通機関が完全にマヒする中、迂回路を巡りながら16時間かけて東京から東北の地へ。被災の最前線に立った幹事長は、眼前に広がる無残な光景に愕然としながらも、声を絞って地元公明党議員らに語りかけた。「再興させよう! 絶対に、絶対に公明党の力で」

山口代表も3月24日、過密日程の隙間を縫って被災地に入った。山形市内の避難所では、福島からの原発避難者一人一人の手を取り、懸命に激励。宮城県内では、被災者との青空懇談会や壊滅した魚市場などの視察、知事との打ち合わせと、寸暇を惜しんで現場の声の収集に汗を流した。

代表、幹事長を先頭に徹底して現場を歩く公明党の活動はその後、「防災・減災ニューディール」など数次にわたる緊急提言に反映。震災2カ月半後の5月26日には、一人一人の人間に焦点を当てた「人間の復興」を基本理念とする骨太にして緻密、かつ中長期視点も加えた独自の復旧復興ビジョンとして実を結ぶ。

ちなみに震災発生から半年間だけで、公明党は計16回766項目の提言と申し入れを行い、数多くの政策を実現させた<表参照>。

また、党独自の義援金口座も開設し、真心の浄財を日本赤十字社に寄託。山口代表の呼び掛けで国会議員歳費削減法も成立させ、総額22億円を復興費用に充てた。さらに被災地の公明議員から寄せられた現場の切実な声を受け、「災害弔慰金」の対象者を兄弟姉妹にも拡大。党3県本部が行った仮設住宅点検活動をもとに、風呂の追い炊き機能や物置の設置も実現させた。

《証言》村井嘉浩・宮城県知事「公明党議員は被災直後からフットワークも軽く現場を歩き、被災地が必要としている復興予算や各種法案も通してくれた。公明党のネットワークの成果であり、改めて公明党の存在意義を認識した」(12年3月 本紙記者に)

一方、民主党政権の対応は稚拙を極めた。菅首相の強引な原発視察による現場の混乱、放射能拡散予測にかかわる情報公開の不徹底、"通告なし"の汚染水海洋放棄―などの失態続きに、国会に設置された事故調査委員会が後日、「原発事故は政府による人災」と断罪したことは周知の通りだ。

11年8月、震災対応で迷走し続けた菅内閣は総辞職。野田内閣が後を継いだ。だが、新政権も結局、「遅い、鈍い、心がない」の対応に終始。そんな中、公明党の被災地支援は切れ目なく続き、12月には公明党の主張を全面的に反映した復興特区法と復興庁設置法が成立。翌12年3月に制定された「福島復興再生特別措置法」も、公明党が政府案を大幅修正させたもので、基本理念に「人間の復興」の視点が追加されたほか、(1)18歳以下の医療費無料化(2)再生エネルギーに対する財政措置の拡充―などが盛り込まれた。

《証言》五百旗頭真・復興構想会議議長(当時)「(政府の対応は)率直に言って遅すぎる」(11年11月10日の構想会議で)、「幸いなのは(中略)公明党のような被災者への思い入れの深い野党が存在したことだ」(同11月27日付「毎日」)


「政権復帰」以後 再生へ一気に加速

見えてきた明日の東北像

風評、風化にも対抗

12年12月、公明党は連立政権に復帰。復興加速へ、一気にアクセルを踏み込んだ。

同月18日、自公党首会談で山口代表は、新政権の最重要課題として、経済政策とともに「復興加速」を提案。25日に交わした連立政権合意書に「東日本大震災の復興を最優先にして政府を挙げて取り組む」ことが明記された。

翌26日、第2次安倍内閣が発足。公明党から国土交通相として入閣した太田あきひろ氏(衆院選候補=東京12区)は就任早々、全閣僚の先陣を切って被災地へ。その後も「復興を妨げる隘路を切り開く」との"初心"のままに、(1)復興道路の前倒し開通(2)復興住宅の建設促進(3)新機軸の復興公共工事の展開―など"目に見える復興"を果敢に推し進めた。

それにしても、民主党政権とはいったい、何だったのだろうか。菅・野田政権時代には一向に見えなかった復興の具体像が、自公政権に移ると鮮明に姿を見せ始めた。(1)福島復興再生総局の開設(2)復興予算の大幅拡充(3)原発避難住民の「早期帰還・定住プラン」策定(4)廃炉関連などの新産業国際拠点を築く「福島イノベーション・コースト」
構想の推進―等々と。

公明党独自の支援もいや増し加速した。東北3県ごとに国会議員を割り当てる「顔の見える復興支援体制」が拡充され、風評と風化という"2つの風"への取り組みも強化された。風化に抗うために企画された写真展「『人間の復興』へ」(本紙震災取材班撮影の写真のパネル展示)も順調に全国を巡回している。

後半戦に突入した衆院選。公明党はマニフェストに「東日本大震災からの復興と防災・減災対策」を最重点政策の一つに掲げ、さらなる取り組みを約束している。東北復興のカギは公明勝利にあり!

《証言》宮城県南三陸町「ホテル観洋」女将・阿部憲子さん「写真展、観光による復興支援、復興道路の前倒し開通など、被災者に寄り添う公明党に心から感謝しています」


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本紙東日本大震災取材班による単行本『命みつめて~あの日から今、そして未来へ~』が鳳書院から発刊された。風化に抗うため、「命」という原点に立ち返り、そこからオールジャパンによる復興加速の再闘争を―。そんな思いで書き綴った一冊だ。

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