e無罪へ "重い扉"開いた!

  • 2014.08.27
  • 情勢/社会

公明新聞:2014年8月27日(水)付



袴田巌氏の48年間にわたる獄中闘争を支えた
袴田 秀子さん
公明党法務部会顧問、衆院議員、弁護士
漆原 良夫氏



1966年に起きた袴田事件で死刑が確定していたものの、無罪を訴え続けた結果、静岡地裁が今年3月27日に再審開始の決定を下し、釈放された袴田巌さん―。その獄中闘争を支え、現在は巌さんとともに浜松市内で暮らす実姉の袴田秀子さんを、超党派の救援議員連盟の中心メンバーである公明党法務部会顧問で弁護士の漆原良夫衆院議員が訪ね、語り合いました。
再審決定と釈放、喜びで夢心地。議連の支援に感謝 袴田
不屈の闘いに心から敬意。えん罪なき社会必ず築く 漆原


漆原 再審決定という、無罪確定に向けた狭くて重い扉が開かれました。本当に良かったです。

袴田 巌が生きて帰ってきたことが何よりもうれしくて......。再審決定が出て釈放された3月27日はうれしくて、夢心地の気分でした。

今なお続く激しい拘禁症状

漆原 巌さんご自身、そして、秀子さんをはじめとするご家族、支援者の方々の不屈の闘いに心からの敬意を表さずにはいられません。巌さんは7月に病院を退院し、秀子さんと一緒に暮らしていますね。

袴田 やはり長期間の拘置所暮らしの影響で、拘禁症の症状が激しく、おかしな言動があります。先日は、トイレに長く入っていると思ったら、便座に腰掛けてボーッとしていました。便座がイスの代わりになる拘置所の一人部屋を思い出したのでしょう。

漆原 巌さんは、いつ死刑が執行されるか分からない恐怖の中で、命の不安と闘い続けてこられた。そうした日々がいかに過酷だったかを物語っています。

袴田 1980年に死刑判決が確定するまでは、面会に行くと、一生懸命に事件のことを話してくれ、こちらが逆に励まされるほど元気でした。しかし、死刑が確定したころ、ある日、面会に行くと「昨日、処刑があった」「隣の部屋の人だった」「お元気で、と言っていた。みんながっかりしている」と面会室のガラスに顔を押しつけて震えるような声をして私に訴えました。それからでしょうか、面会のたびに言うことがおかしくなりました。死刑執行を身近に感じるようになり、普通ではいられなくなったのでしょう。

漆原 巌さんを支え続けた秀子さんご自身にとっても、大変な48年間でしたね。

袴田 気が付いたら48年たっていたというのが率直なところです。毎月、差し入れを持って面会に行きましたが、きょうは何月何日で何年目だということは考えないようにしてきましたから......。それに、超党派の議員連盟の皆さんをはじめ、多くの支援者の方々に助けていただき、本当に感謝しています。

最終決着にはまだ時間かかる

漆原 2010年に正式発足した議員連盟は、会長に就任した民主党の牧野聖修氏らと共に立ち上げました。法務大臣を何度も訪ね、死刑執行の停止や拘禁症などの入院治療を申し入れてきました。

袴田 漆原議員には、議連の最初の段階から大変にお世話になりました。ご支援はとても大きな支えになり、ありがたかったです。ですから、再審決定後、真っ先にお礼に伺ったのが、議連の皆さんでした。

漆原 ありがとうございます。残念ながら、検察は静岡地裁の再審決定を不服として、東京高裁に即時抗告しました。無罪確定にはまだ時間がかかります。

袴田 一日も早く無罪が確定することを願っています。それに、仮に無罪が確定したとしても、その後の巌の生活にはさまざまな不安が残ります。引き続きご支援をお願いします。

漆原 議連のメンバーと連携してしっかり取り組みます。二度と巌さんのケースと同じようなえん罪を繰り返してはいけません。

袴田 その通りです! えん罪事件は他にもあると聞きますが、なくなることを願っています。



再発防止へ改革実現を 袴田
取調べの可視化進める 漆原



漆原 静岡地裁による再審決定では、巌さんが「捜査機関に捏造された疑いのある重要な証拠によって有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた」と認定し、「無罪の蓋然性が相当程度あることが明らかになった現在、これ以上拘置するのは耐え難いほど正義に反する」として釈放を命じました。証拠を捏造するというのは、犯人を作り上げることです。絶対に許されません。

袴田 巌は最初から、証拠は捏造だと訴え続けていました。

自白偏重改め捜査の過ちなくせ

漆原 刑事司法における最重要の格言には「10人の真犯人を逃すとも、1人の罪のない人を罰することがあってはならない」とあります。

袴田 大事な言葉です。絶対に守ってもらいたいですね。

漆原 なのに、なぜえん罪がなくならないのか。それは、証拠の中でも、特に自白に重きが置かれてきたからです。自白は裁判で有力な証拠とされるから、捜査機関は自白を取りたがる。しかし、いったん自白をすると、裁判で覆すには、強制的に自白させられたことを自ら証明しなければならず、非常に困難です。幸いにも今回の再審決定に当たっては、DNA鑑定が決め手となりました。やはり、自白偏重を改めて、間違いのない科学的な捜査をしていかないといけません。

袴田 その通りです! 巌が逮捕された当時は、警察が嘘をつくなんてあり得ないと皆が思っていました。警察に調べられた人は即、犯人のようになってしまうのです。これも問題です。

漆原 やはり、えん罪を防ぐには、取り調べの全過程を録音・録画して、後から自白の強要や誘導がなかったかを確認できるようにしなければなりません。公明党は、この取り調べの可視化を一貫して進めてきました。私も、国会質問などで何度も訴えました。その結果、政府でも可視化を進める流れが出てきました。巌さんの事件を契機に、そうした流れをさらに強めていかなければなりません。

袴田 そうです! 何はともあれ、一つずつでも具体的な改革を実現してもらわなければ困ります。

漆原 きょう、巌さんと秀子さんにお会いして、えん罪のない社会を築く決意を新たにすることができました。これを糧に全力で取り組みます。

袴田 期待しています。頑張ってください。


はかまた・ひでこ
1933年、静岡県旧雄踏町(現在の浜松市)生まれ。33歳の時に、実弟の巌氏が逮捕・拘留されて以来、毎月、面会を欠かさず、獄中闘争を支えてきた。

袴田事件
1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅が放火され、一家4人が他殺体で見つかった。県警は同年8月、強盗殺人容疑などで従業員の元プロボクサー袴田巌氏を逮捕した。同氏は起訴直前に自供したとされるが、公判では無罪を主張。1審の静岡地裁は死刑を言い渡し、80年に確定した。

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